「6) えやはいぶきの」カテゴリーアーカイブ

年の初めにあたって

年の初めにあたって

昨年は、一昨年に引き続き、日本臨床心理学会にとって歴史的な悪夢の年となりました。
一昨年の総会でなんと、学会運営を担う役員の選挙に不正がありました。
有権者数の確認を怠り、「過半数」の母数が過小に認定されしまったのです。
このため、本来なら当選できないはずの人物が二人も「当選」とされました。

選挙管理委員は、度び重なる是正要求を退けました。
いちばん公正でなければいけない人びとが、この態度でした。
それどころか、不正を監視するはずの「監事」まで、虚偽の証言をしました。
「結果に影響なし」というのです。
もはや、不正の泥沼に溺れた学会となってしまいました。

その人たちが、相も変わらず、役員に居座り続け、不当な決定と、虚偽に満ちた広報を続けています。
さらには、選挙に立候補しなかった人たちがいつの間にか「運営委員」に名前を連ねています。
明らかな会則違反です。
総会に提出された文書と発言を改竄し、誤解を広める広報もありました。

昨年の暮れには、「会員の除名」条項が、会則に付け加えられました。
寛容と平等を旗印に掲げてきた学会が、ついに、
独善と排除へと舵を切りました。

そうしたことが、学会員の支払った会費によって続けられているのです。

不正選挙は、重大な問題です。
しかし、形式的な問題とも言えます。
活動の内容が貧弱で、旧態依然のアリバイ造りでしかないのはもっと情けない。
何より惜しまれるのは、臨心の改革、発展の志を持って、新たな立場から運営委員に立候補した人たちが、全員落選させられたことです。その人たちが加わっていれば、このような無道は行なわれなかったはずなのです。

なぜ、そんな結果になったのでしょうか?
それは、総会に出席した人びとが、ほぼ、十年、二十年と運営委員をしてきた「ベテラン」だけだったからです。
言い換えれば、一般の会員がほとんど参加しなかったからです。

わざわざ、会員の参加しづらい
夜間に、総会の時刻を設定するという姑息さ!!

このため 総会では、お手盛り決定が当たり前 になっています。

馴れ合い仲間の、地位を守るためだけの活動になっているのです。

今年もまた、このような有り様が続くのでしょうか?
一般会員の参加がなければ、運営委員を名乗る不正をなんとも思わない人びとが、
好き勝手に独断と排除を続けます。

それとも、新たな臨心の幕が開かれるのでしょうか?
気をつけて見守りたいと思います。

第20期運営委員/編集委員長 實川 幹朗

 

第21期役員選挙に疑義!

第21期役員選挙に疑義!

前期運営委員と候補者が選挙の公正を疑う公開申し入れを行ないました。公開申し入れ書を出した第20期運営委員には、運営委員長(会長)、事務局長(運営副委員長代行)、編集委員長の前期運営委員会という要職が揃っています。学会の根幹を揺るがす事態です。
宛て先は、第四十九回総会議長団(亀口公一・小西しゅんよう・丹澤和美)、選挙管理委員(西田久美江・三島瑞穂)、第20期監事(滝野功久:開票立会い人)の三者・六人。

臨心13.8.10選挙への申し入れ書

菅野聖子(21期事務局長)への公開質問状

菅野聖子(21期事務局長)への公開質問状

戸田 游晏

 貴女は、貴女ご自身がそもそも、貴女も認めておられる「誤り」を含む文書を公表したことが、貴女が言われる「多大なエネルギー」と運営委員会の時間を浪費することとなったことをさておいて、「総括」(25年8月10日開催総会資料として会員全員に配布)に綿々と<その後の貴女の個人的見地からみた経緯>を書かれております。
 
 最初に貴女が「誤り」を含む文言の文書を学会誌に掲載し、さらに、まだ「誤り」を含む文言の残る文書を再度学会誌に掲載し直し、その間、實川委員が再度訂正を求めても貴女の理解力の問題かどうか、即ち恣意的か否かは不明ですが、結果的にそれらを無視し、そこで實川委員が「虚偽」と批判することでようやく、貴女が修正に応じていかざるを得ない状況が導かれた、とわたくしは理解しております。19期からの皆さんは如何、見なされているのでしょう。
 これも、年下のか弱い子が、ちょっとした失敗で、外から来たいじめっ子に苛められているのを守ってあげる?
 或いは「つぶれる虞のある(小濱氏の言)弱き者」を守ってあげるため?
 それが、本人のためになるのでしょうか?
 いつまでも依頼心ばかり、自らの好き嫌いを正しいことと間違ったことと重ね合わせて主張することから、これでは一向に成長できないではないですか?
 
 そもそも、菅野委員、貴女が本件の起源を発生せしめた。
 そして、貴女が「総括」で實川委員や戸田を批判しておられると同じことを、貴女は實川委員になさって来ていた。
 K会員の心情は、貴女の過剰な投影的同一視のご能力で慮っても、實川委員が、そのように度々訴えられた心情には一顧だにしない。
 つまり、万人に対する公平な評価を、貴女の私情と先入観から、或いは、貴女の内的な利得(自らが「弱き者」を助ける救済者)により曇らせてはいないか。
 
 総じて、本件は、貴女のマッチポンプ式の、つまり自らがヒロインとなる悲劇の起源を自ら作っておいて、多くの迫害と苦難を乗り越えたという、「菅野劇場」ではないですか?
 
 よく顧みてください。
 貴女が他者に為したことが、そのまま、本件において貴女自身が被るという経験を為さったという、鏡に映した構図なのです。
 貴女が「総括」に書かれた、實川委員とわたくし戸田に対する批判は、そのまま貴女ご自身に映し返ります。
 それが、貴女に自覚できているのかそうでないのか、そうでないのは、会員全員に配布する「総括」にこれを堂々と書かれていることで明らかです。
 
 このような自覚を持つことなく運営委員となり、会務に発言権をもたれることは、非常に由々しき事態である、とわたくしは考えます。
 所信表明に、これからは内部抗争ではなく対外的に成果を、と誰かが主張してきたことをご自分のご意見の如くに書かれております。
 しかし、わたくしが何度も貴女が司られた公開シンポ事前に、中川聡氏(精神医療被害連絡会代表・向精神薬薬害被害者のご家族)へのコンタクトをお勧めしても、メール一本ですむことを一向に進められませんでした。
 そして、この13日(平成25年7月13日、兵庫県芦屋市にて、関西委員有志にて開催の向精神薬サバイバーの方々との交流会)、わざわざ遠方(茨城県)からお運びになられたにも関わらず、会場で多く出たサバイバーからの重い批判と問いかけと要望に対して、もしわたくしが発言の時間を設けなかったら、貴女は果たして何を、積極的に、「対峙(貴女はメールではしないが、顔の見える会議ではなさると宣言されています)」してお応えになりましたでしょうか?
 苦しみを乗り越えまたそれらにいまもさいなまれつつ絞り出すように訴えてこられる方々からの重い重い言葉の数々。
 それに対する貴女は、なにをお応えになられたのでしょうか。貴女から発せられた言葉、貴女自身が、方々からの言葉に籠められた深い思いへの、衷心からのご応答ではなく、「貴女の所属する機関ではそのようなことがないように心がけている」趣旨を陳述されましたね。研修委員長菅野聖子としてでもなく、まして、<菅野さんご自身の生身>がしっかりとその思いを受け止められた上での、衷心からのお考えやお気持ちを表されていたものでは、なかった。
 会場でサバイバーのどなたかが、そのような機関があるということで少し安心しましたとの旨の返しをされたのは、「優しさ」です。
 
 菅野委員、貴女は、日頃のお仕事の中で、そのような、いわゆる「される側」からの「優しさ」「赦し」、時には諦めを伴った、それらに支えられて自らの仕事を存立させている。
 HPの事例を先に引かれているその筆致から垣間見られるのは、貴女の「おためごかし」言辞を甘んじて諦めて受け止めてあげている子どもたちのけなげさと赦しの力の大きさです。貴女は子どもたちの優しさに寄りかかって、立派なお仕事を果たしてられる、その自覚が貴女の言辞からは感じ取ることが、わたくしには難しいのです。
 言葉を換えましょう。子どもたちは、必死に生きている、それだけになまなかな誤魔化しは鋭く見抜く、そして見抜きながらも相手の度量に併せてくれる、つまり支援者が傷つきやすければ傷つけないように対応する(つまり相手にわからないように、分かると相手が酷く傷つくのがわかるから)、非常に怖い存在です。
 貴女は、貴女がケアしているつもりの子どもたちにケアされて、いま、ここに生きておられる。
 
 今回の来阪には、他の主なる目的がたとえあられての「ついで」だとしても(そのことはお伺いできませんでしたが)、中川さんにも開会前に短く自己紹介されただけで、その後、懇談を求めることもなかったのではありませんか?同じ関東ですので、今後有益な協力をなさっていかれる端緒を開いていかれるためならば、会の後にお残りになってしかるべきでしょう。
 
 総じて、疑問を感じますのは、貴女が何のためにこの関西の会に来られたのかわたくしには不可解である、ということです。
 
 さてさて、このように申し上げますと、また弾劾するようだ、検察官のようだ、とかと言われるのでしょうね。
 
 しかし、第七回運営委員会関東統合会の議事内容を昨夜(当時の時点)拝見したところ、丁寧に人事に関する議論をするために、選管に時間延長を申し出られたこれを酒木委員長を通しての伝達を要請されたとのこと。貴女は果たして、1年に一度の会則の決定が可能な本来の総会議事をさておいて、運営委員会内部においての意見対立を「総括」の名を借りての<粛正>を図るのですか?
 
 それこそ、貴女方が、一般会員を「外部」と見なして、つまり運営委員会を「内」とする観念の現れではないでしょうか。
 貴女方が、旧来の運営委員会を「学会そのもの」と大きな勘違いをされてきたことへの反省が、またこれだけの工数と会員が委托した資産をかけながらも、まだお分かりになってられないことが、ここに露呈しております。
 
 たびたびのわたくしからのそして重ねてのお問いかけに、貴女は、現在進行形で、無視と黙殺を続けておられます。
 これは、貴女が総括で貴女が被られたと主張する行為を、貴女ご自身がなさっていることではないですか?
 

前(20期)事務局長 戸田游晏
平成25年9月9日(平成25年7月18日MLにての意見投稿に注釈を挿入)

20期運営委員会事務局長退任にあたって

20期運営委員会事務局長退任にあたって

戸田 游晏

 本学会運営委員会の内側に入りこみ、そのhabitusの有りようになまなましく出会ったとき、深い幻滅を伴う衝撃を受けた。
 それは、旧くからの多選役員の概ねの考え方や行動様式が、わたくしの発想の地脈とは異なる基盤に根を下ろしている、と気づいたときであった。
 第一の「驚き」は、運営委員会多選委員の、対会員、対社会の考え方が、わたくしとはほぼ対極にあったことである。これがまず露わとなったのは、第48回大会東京会場企画事案での参加費用額設定においてであった。
 わたくしは、非会員を無料とすることを提案した。その根拠としてわたくしは、以下を疑うことがなかったからだ。すなわち、会員の拠出する貴重な会費は、本学会が社会に対し意見を発信し、啓発活動を支援し、会員の学術研究成果を広く公開する用途で使うべく託されている、と。ところが、「会員であることの特典」がなければならないとの多数見解によりわたくしの意見は却下された。
 これが、本学会の理念(とわたくしが思い込んでいたこと)と本態とのズレの認識、いやそれのみでなく、現行運営委員会が維持する通念への疑義を抱いた最初の体験であった。その後もさまざまに不条理な出来事が、事務局長の会務の中では頻出した。それらは、幾人かの運営委員を一個人の見地から批判する形とならざるを得ないので、いまとなっては逐一語るべくもない。
  しかし、昨年末の一事例は、これらの幻滅感をよりいっそう再認せざるを得なかった。それは、わたくし個人の問題ではなかったからである。

 昨年の晩秋わたくしは教え子に当たる一人の女性から、向精神薬薬害と進学先医療教育機関からの不当と見なしうるその人への処遇とが絡み合った難しい相談を受けた。その問題には某地方都市の医師会も絡み、わたくし個人ではいかんとも対処できなかった。ましてや、精神的にも経済的にも切迫した状況にある当人に対して、カウンセラーの本領である対症療法として一時しのぎのなだめにしかならない「セラピー」でうやむやにごまかせるような問題ではない。
 そこでわたくしは、運営委員会に、当人が通う医療教育機関の経営主体である某市医師会への調査依頼と意見申し入れができないものかと願い出た。しかし、これを真摯に現実的に受け止めていただいたのは、一部の委員に過ぎなかった。暦年の役員から唯一人、支援の方向を探る意見を出してくださった委員でさえ、まずは、「当人が会員であるかどうか」を問われた。
 わたくしの本学会へのかつての認識としての(今や今後に期待するしかない)責務は、個人で解決するには大きすぎる問題を抱える精神保健福祉ユーザーへの組織的支援を行うことである。社会的弱者の立場を常に共有し支援する機能を喪ってしまっては、ましてや会員同士で利益を守り利便を図り合うという内向きの姿勢では、社会に於ける本学会の存在意義は、危うくなるのではないだろうか。
 その後、わたくしでできることを行おうと、個人的つながりを通しての支援を試みた。しかし、本人は当教育機関の姿勢への影響力が見込まれる組織からの意見申し入れを望んでいた。「自分はもう退学し他分野の専門職を目指すが、後輩のためにぜひお願いしたい」との思いからであった。その後、本人はわたくしへの連絡も閉ざした。その人が現在どのような境涯にあるのかは解らない。
 高らかな理想を掲げる、本学会の運営委員会事務局長という立場に自らがありながら、若い教え子一人の支援さえできなかった。本人は、本学会のホームページで広報された理念を読み、本学会に一縷の望みを託してくれていたのに。

 ここであらためて、運営委員にわたくしが立候補した動機のひとつとなった一連の出来事が思い出される。
 かつてわたくしは編集委員会から或る投稿論文の査読を求められた。その際、より優れた見地から閲読をしていただける非会員を紹介したが、そのときのわたくしの応答の一部がコンテキストから遊離して投稿者に伝わったと想定される出来事が生じた。これが、他の経緯も複合する紛争へと発展したと伝え聞いた。そして編集委員の一人の解任要求が運営委員会に提出される事態となったことを聞いたわたくしは責任を覚え、当時の運営委員長藤本豊氏に対し、数度にわたり事実関係の説明を書き送った。
 ところが、数ヶ月を経ても回答は無かった。わたくしは監事にこの事態を質す書面を事務局に託したところ、回答はあったものの「監事は会計監査を行うので会務に関与しない」との旨であった。(当時および現行会則に、「会務を監査する」と記されているのであるが。)こうして、わたくしは一会員として意見を運営委員会に申し立てる手段を失い、致し方なく、6月の編集委員会開催期日に上京し、編集委員会への直接申し入れを行った。その結果、新たに編集委員に任用いただいた(が、編集委員会メーリングリストへの参加は結果として8月下旬に至るまで許可されなかった)。そこで、7月に大阪で開催される運営委員会に無償で書記を務めることを申し出て、議場に参加することができた。こうして、ようやく藤本運営委員長から直接の回答を頂くことができた。
 しかしながら、藤本氏のお話は、率直なところ、わたくしには充分了解し得るとは言い難いものであった。つまり、藤本氏は、ご自分が公的職務として東北支援に派遣されていたことと、そのことに関するご家庭の事情を語られ、それらの事情への共感をわたくしに求められた。それよりも驚いたのは、本紛争当事者に対する藤本氏ご自身の差別的所感が言葉の端々に感じられたことだ。
 そのときである。わたくしは、この学会はこのままではダメだと、それまでの懸念が一気に確信に変わった。これが、本運営委員会のhabitusだ。一般会員の要望や切迫した訴え(それは学会をとりまく社会状況の不条理を代弁するものであってさえ)、それらを、自らの個人的事情を言い訳にして、不作為と無視で切り捨てて顧みない。このような暗々裏に本運営委員会内に暦年醸成かつ伝承されてきた集合意識からの承認を背景に、当時の運営執行部の長藤本氏は、通常一般の言動であるかにそれらを行い、微塵も恥じるところがなかった。
 ここに体現される「学会としての社会的使命より仲間内の情実重視」という運営委員会habitusの変革に根本から挑まねば、本学会が公に掲げてきた理念に、もはや存続の未来はないと思われた。
 翌年1月の前期・今期の引き継ぎを兼ねた運営委員会で、互選による運営委員長選出が行われた。そのとき、わたくしの心からの叫びとして、藤本氏の運営委員長への再任反対を訴えざるを得なかった。
 当事例の背景となる前期運営委員会会務の内部状況は、現時点でも伝聞でしか語れない。
 なぜなら、任期終了をあと数ヶ月に残すいまこの時点(平成25年5月25日)でさえ、わたくしは前期運営委員会メーリングリストを参照することが許されず、前期委員間でどのようなやりとりが交わされていたのかを知ることができないからだ。
 ところで今期、新任2名を含む運営委員6名が任期中に辞任された。新人のうち1名は学会を退会された。この方は他領域の専門家であったが、一般の方々が本学会への入会意義を高め得る方策と将来的発展に資する優れた具体案を抱かれており、本学会の運営執行に携わって頂きたく、わたくしが切に入会をお願いした方であった。だが、従来の運営委員会での閉塞した展望を切り拓くその方の画期的な案が提示される、その前の段階で、「これまでに、やったことのないことはしたくない」との、例によって例のごとき抵抗に出会う。つまり、正面立って提案内容の意義を議論したくないときに、自民党改憲論の如き「内容吟味回避の手続き論」や「無視による引き延ばし」等の間接的手段で新たな変革案を排除しようとする、旧来多選の多数派委員が常道とする半ば無意識的集合的回避行動に遭遇し、去っていかれた。
 任期半ばにこのように複数の辞任者が出たことは問題にされてもよいが、前期の運営委員にもまた同様の事態が生じていることが表だって語られないことには、いささか疑問を感じる。すなわち、前期の新人運営委員2名は任期終了後に退会、前事務局長も、また前期以前から会務の改善を訴えてきた元運営委員も年度末を期に退会している。したがって、任期中途であるにせよ、かつて一人の委員が「淀む水が腐る」と訴えた事態そのものは、前期からさほど変わっていないと言えるかもしれない。
 その淀みの中にあって、処を得つづけてきた集合意識からの見えにくい圧力が、新たな参入者を脅かしつづけたことは否めないだろう。
 新たにその淀みの場に(表面的には)暖かく迎えられ、目的意識と希望を抱いていた新任委員たちの間に、その見えざる圧力が微妙に亀裂をもたらし溝をうがった。その果てに互いに疑心暗鬼に陥り、深刻な不全感を抱きつつ静かに去っていかれたのではないか。
 そして何より、わたくしが今期味わった最大の遺恨は、8月の第48回大会(東京会場)の2日目に遠方より足をお運びくださった比較民俗学会会長への、運営副委員長および藤本委員の礼節を欠いた対応であった。

 2日目に、わたくしは後述の宮脇運営副委員長が初日の総会で提示した、比較民俗学会学会誌の中の漢字二文字の表記に関わる誤解を正していただくために、宮脇副委員長に同席を求めた上で、会長に経緯を説明した。会長が、比較民俗学会としての文言選択の意義説明をされているとき、宮脇運営副委員長は会長の言葉を遮り反論した。当然、会長は立腹され、「では、この共同開催の話はなかったことにしましょう」とまで言われた。その後大会説明会が行われる中、宮脇副委員長は学務のため会場から退出された。説明会の席上、会長から、お気持ちを納められての「一緒に頑張りましょう」とのお言葉を頂き、わたくしは心底安堵した。しかし、まさに、その後のことだ。藤本委員が個人的に会長に再び、他学会機関誌内の記述変更を求める申し入れを行ったのである。
 わたくしは、時程半ばで帰られる会長をお見送りする行路で、日頃は温和でにこやかな氏が、「ほんとうに、この学会の方たちには、申し上げることばが通じないのですね。」と仰ったことを、忘れようにも忘れられない。社会的に見識の高い第一級の研究者でおられる小島先生に対し、初対面にも関わらず、運営副委員長と藤本委員は一方的に自らの立場においての都合を主張する。これが、臨床心理実践者の態度であろうか。比較民俗学会の語彙解釈を尊重せずに一方的に否定することを以て、他学会とその長を侮辱したことは、本学会としての謝罪を免れない、極めて深刻な事態ではないだろうか。

 そもそも、第48回大会が中国大連市で開催されると決まったときに、わたくしは東アジアでの数十年にわたる地道な実地調査にもとづき、人々の日常生活と文化の機微を研究してきた実績のある比較民俗学会の年次大会との合同開催を企図した。これは、わたくしが本学会の内向き傾向を少しでも打開する緒として自ら申し出た渉外担当職務の一環であった。言うまでも無くこれら交渉のための出張費用等は自費であり、本学会からの拠出はしていない。
 この事件前日の総会時においての、宮脇運営副委員長の比較民俗学会会報記述の「共催」表記を、たまたまその記事の直前に論文が掲載されていたという根拠に依って、實川委員を批判したことは、一方的思い込みによる的外れな言いがかりに過ぎなかった。このような議論の紛糾による時間の浪費に依り、その後も予定外支出と多くの事務工数を費やすこととなる臨時   総会の開催を年度末直前に行わねばならない事態を招いた。
 総会時程は東京会場企画担当者の設定であり、学会認定資格検討委員会費目等新たな重要事案を含む審議を期して、メーリングリスト上でわたくしは再三再四にわたって、運営委員各位の円滑な議事進行について呼びかけお願いしてきた。にも関わらず、これらを無視した運営委員会三役の一人からの議事開始直後の動議によって、議事継続が阻まれたのである。
 議場で、他学会内部判断に関わる、自らは預かり知らぬ責任への追及を唐突に被った實川委員が反論した。その説明を、宮脇運営副委員長は言葉を覆い被せて遮った。これに抗議して實川委員が声を荒らげたとき、たまたま遅れて総会議場に入室した会員があった。
 後にその人が、その場で感じ取った私的所感を事務局への連絡文書に書き添えてこられたことがあった。その文面から切り取られた断片を、後の第四回運営委員会(対面会議)議場で、藤本委員が提示なさり、實川委員への責任追及動議の道具として用立てられた。
 これら2例の行為様式には、同様の構造が認められる。他者の書いた文書を利用した個人攻撃が、本学会歴任運営委員の一部habitusの常道であろうかと推測されるのだ。つまり、或る目的(対立委員の意見陳述を制圧)のために、その場の主題とは無関係な事象(上記事例では、他学術団体の機関誌に記述された学術用語ではない二文字熟語・コンテキストへの理解が不充分なまま綴られた感想文)を道具(横槍)として用いられているのである。
 わたくしは今期初めて運営委員となり事務局を務めるにも関わらず、新人運営委員であるが故のこまごまとした不明瞭事案にぶつかることが度々で、そのことに苦悩してきた。にもかかわらず、昨年度の会務遂行状況を自ら調べて参考にできない。そこで社会常識としての見地からの、自分なりの工夫で会務を執行することに務めた。そのような対処方法の可否と遂行過程報告を、ときには2ヶ月近くにわたって再三運営委員会メーリング上で意見を求めてきたが、数名の特定の委員からの応答しか得られないことが専らであった。そこで致し方なく、無回答であることを異論がないと解して事案を進めると、多々それらは事後的に総会や対面運営委員会で蒸し返され、情緒操作を伴う手慣れた交渉術で事案の根幹への検討を巧みに回避した消耗戦に持ち込まれる。その末に、時間切れを理由に多数決で覆されてしまう。
 すなわち、本学会運営委員会には、長期にわたるメーリングリストにおいての文書上での問題提起においても、対面での話し合いにおいても、根本的な合意が成り立ち得ない、立脚点の異なる対立軸・別土俵が厳然と存在しているのだ。
 以上拙文は告発の書き物である。だが、事例として挙げた個人への弾劾ではないことにご留意頂きたい。この運営委員会に暦年醸成伝承されてきた、habitus本態への気づきを促す警告として書き留めたものである。
 その他の本運営委員会の諸様態を言語化し露呈させようと綴った拙文の類を、来期の運営委員の方々の参考としていただければ幸いである。それが叶うなら、今期メーリングリストにわたくしが逐次書き込んできた少なからぬ文章や対面運営委員会や総会についての拙所感(機関誌掲載)に費やした労力に、いささかの意義を自らに見いだすこともできよう。
 機に応じそのときどきの私感と所見、これら全てを、本運営委員会の会務記録として、将来の公開に備えて欲しい。
  以上、敗者の弁としては、饒舌に過ぎた。
 ·  次期の運営委員各位、ことには菅野新事務局長におかれては、文字通り命がけの健闘を期待する。
 

暗闇に洪水が。。。。

 

暗闇に洪水が迫っている。。。。。。Après nous …

8月10日の総会は、会則第13条を無視し、
十分に討論をしないまま役員選の投票を強行した。
論ずべきことは、山ほどあった。
「臭いものに蓋」!
議長団と選管が結託し、強行採決(投票)を行なった。
委任状を含めた数の力で押し切りった。
まるで昔の自民党政治。
必要なら夜を徹してでも徹底的に討論するが、
決して排除はしない

(吉田昭久)
それが臨心の「よき伝統」ではなかったのか?!

「対峙する」と豪語していた人も逃げた。
言われて困ることがそんなに多かった。。。。。
新しい人たちは排除され、数十年来の昔の仲間が寄りあった。
同じ顔ぶれの多選に継ぐ多選!!
かつて清かったはずの流れがが、なぜここまで淀み、腐ったのか?!
嘘を吐いて運営の妨害をした人たち、仕事をしなかった人たちが
堂々と再選
された。
改革に尽くした人、改革を訴えた人は落選。
新しい人材が去って行くのは、もうデジァヴューの如き事実!
このような学会に、もはや未来はあるはずかない。
これを「全世界に」訴える。


恥を知りたまえ!!


實川 幹朗